第48回 関が原・青春ウオーク 柏原から関が原〜垂井まで
2008.3.27(木) メンバー8名:西川・浜村・竹村・浅井・竹内・福井夫妻・清水
電車行程 生駒駅
奈良線・準急
西大寺駅
京都線・急行
京都駅
徒歩
JR・京都駅
新快速
米原駅
新快速
柏原駅
7:35 7:47〜7:53 8:36 8:52 9:46〜9:53 10:07
コース:JR/柏原駅〜国境寝物語〜今須宿〜常盤御前の墓〜不破の関〜関が原古戦場〜垂井宿〜垂井駅

今日の集合場所はJR京都駅西口であるが、青春切符を利用しての関が原ウオークのためそれぞれは京都駅発8:52の電車に既に乗っている。
京都での待ち合わせは浜村・清水の2名。いつもは待ち合わせ時間よりも早い浜村君の姿が8:40頃になっても見えない。
まさか、改札口を入っているのではなかろうなと思い始めると不安になって焦ってくる。さいわい、しばらくすると彼の姿が見えてホッと安心。
二人で青春切符にハンコを押してもらって改札を通る。

2番線ホームで電車を待っていると向かいの1番線ホームに新快速が入ってきた。
乗車のホームが違った。浜村君がそれを見つけ、「アッチャー」。 二人で1番線ホームへ猛ダッシュ。
かろうじて電車に駆け込めた。電車の中で茨木から乗ってきた竹内君の分を車掌に青春切符のハンコを押してもらう。

近江長岡駅では福井夫妻が乗車してこれで全員集合。
10:10
柏原駅をスタート。
中山道を行く。

中山道は江戸の日本橋から東海道の草津・大津宿を含めて京都の三条までの約136里(544km)、69次の街道です。
徳川家康は、関が原合戦に勝利を収めると、まず東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道という五つの重要な街道を整備しました。これを五街道といいます。

スタートしてすぐに左手小さな祠がある。その祠の中にはお地蔵さんが大小ふたつ並んでいる。
右の小さいほうが照手地蔵。

照手地蔵
【照手姫】

 ある日森の中で、照手姫は傷を負って倒れていた一人の若武者を助けました。
姫はひと目で、その若武者が好きになってしまいました。
その若武者も姫が気に入ってしまいました。しかしその若武者は、こともあろうに敵方の侍大将小栗判官でした。
ふたりの愛はそんなことに関係なく深くなるばかりです。
そしてついに照手姫は父の将監を捨てて小栗のところへ走りました。
戦国の世の習い、武士の定めは非情、小栗判官は照手姫の父横山将監を打ち滅ぼしてしまいました。
 その後の照手姫はどうなったか、いろいろな話が伝わっておりますが、このお話は戦国の若い男女の悲恋物語で、恋愛は肉親の情をも断ち切るということを示しています。
10:25
【白清水】

小さな泉で、古くより白清水または玉の井と呼ばれています。
「古事記」に、倭建命が伊吹山の神に悩まされ、この泉で正気づいたとあり、また、中世仏教説話「小栗判官照手姫」に、姫の白粉で清水が白く濁ったことから白清水というようになったとあります。


白清水

白清水説明
10:45
【寝物語の里】

左の写真の溝が、国境の川である。川というのもはばかられるが・・・・ともかく川である。現在でも岐阜-滋賀の県境である。

 国境をはさんだ二軒の旅籠で寝そべりながら話が出来たことから寝物語の里と呼ばれるようになった。



美濃・近江国境

寝物語の里

寝物語の里を過ぎるといよいよ岐阜県に入る。

岐阜県に入った
10:55
今須宿に向かうが途中「車返しの坂」。

【車返しの坂】

南北朝の昔、酔狂な人も居たものです。不破の関屋が荒れ果て、板庇から漏れる月の光が面白いと聞き、わざわざ都から牛車に乗ってやってきました。
その御人は二条良基という人。
ところがこの坂道を登る途中、屋根を直したと聞いて引き返してしまったという伝説から、この名で呼ばれるようになったのです。


車返しの坂説明

車返し地蔵

照手地蔵があったがここも車返し地蔵がある。
竹内氏が福井夫人に話しているのが聞こえてきた。
「地蔵さんはいくつも願いは聞いてくれない。願は一つだけ。だから、子宝・厄除け・延命とかいろんなことを願ってもそれはだめ。
それぞれその専門のお地蔵さんに一つだけ頼みなさい。」と。
11:10
関ヶ原町、今須宿に入ると町並みは昔の趣が何となく漂う。
誰かが電線がないといいのにね、と言うと電柱もないといいねと言い返している。

問屋場
【問屋場】

江戸時代、人や馬の継ぎ立てなど行った問屋が当宿には一時7軒もあって
全国的にも珍しいことでした。
美濃16宿の内で、当時のまま現存しその威容を今に伝えているのはここ山崎家のみです。

常夜燈
【常夜燈】

街道が賑わっていた江戸期は文化5年(1808年)のことです。
京都の問屋河地屋は、大名の荷物を運ぶ途中ここ今須宿付近で、
それを紛失し途方に暮れてしまいました。

そこで金毘羅様に願を掛け、一心にお祈りをしました。
幸いに荷物は出てきてそのお礼にと建立したのがこの常夜燈です。
11:45

12:20

今須峠を越え町中に入ると常盤御前の墓。
少し早いけれどここで昼食。

常盤御前の墓
【常盤御前の墓】

16歳で義朝の愛妾となった常盤御前。義朝が平治の乱で敗退すると、敵将清盛の威嚇で常盤は今若、乙若、牛若の三児と別れ一時期は清盛の愛妾にもなります。

伝説では東国に走った牛若の行方を案じ、乳母の千種と後を追ってきた常盤は土賊に襲われて息を引き取ります。哀れに思った山中の里人が、ここに葬り塚を築いたと伝えられています。
13:15
不破の関庁跡。
ここには不破の関資料館があり100円で入館できる。入ると中には不破関の資料を始め、固関兵士や不破関推定模型、日本最古の鋳造銭「和. 同開珎」等、出土品が陳列してある。
ビデオを見せてもらうと関が原の戦いの900年前の壬申の乱での大友の皇子・大海人の皇子等の解説。

壬申の乱の900年後の関が原の戦い。
ここは古来から天下分け目の場所だ。
現在でもいろんな文化がここで分かれている。エレベーターに乗る位置、味噌汁の色、きつねうどんの色等々。
13:20
【福島正則陣跡】

東軍の先鋒となった福島正則(約6000人)は、ここで南天満山の宇喜多隊と対陣しています。
一番鉄砲のの功名を井伊隊に横取りされるや、正則自ら鉄砲隊を指揮して、宇喜多隊に一斉射撃を浴びせるなか、
一進一退の攻防戦が続きました。

首取りで手柄を立てた可児才蔵が、家康の賞賛を受けたとされています。


福島正則陣跡
13:40

14:20

合戦場跡に入ると「行軍コース」とか「「合戦コース」「天下取りコース」と見学しながらウオーキングを楽しめるようにコースが作られている。
我々は適当に福島陣・宇喜多陣・島津陣・家康陣跡を巡る。

開戦地跡にて
開戦地跡そばには歴史資料館がある。勉強熱心な浜村君だけ一人見学。
15:50
古戦場をあとに車道を行くと垂井宿に入る。
垂井宿は中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点となる重要な宿場です。江戸から57番目、112里8町(約440Km)のところにあります。

垂井宿

垂井の一里塚

徳川家康は旅人のため主要街道に江戸から一里ごとに五間(約9m)四方の塚をつくり頂上に榎を植えました。
この一里塚は江戸から112番目で、榎が松に変わって南側だけが完全に残っており、国の史跡に指定されています。
16:30
垂井の泉。

垂井の泉
【垂井の泉】

岐阜県の名水50選に選ばれた「垂井の泉」は、垂井という地名の起こりとされている由緒ある泉です。
水量は豊富で清涼、県指定天然記念物「垂井の大ケヤキ」の根元から、古来よりこんこんと湧き出ています。ここは中山道を通る旅人が休息をとった場所で、今でも住民の憩いの場として親しまれています。

16:45
垂井の町筋も昔の面影が偲ばれる。
なかには200年前からの旅籠亀丸屋西村家が今でも営業しているという。

今でも営業している亀丸屋
16:50

17:20

19:00

終点の垂井駅に着いた。

反省会の場所を探していると近所のおばさんが駅から少し離れた「おんがえし」を教えてくれ、そこでカンパーイ。

居酒屋

初参加の福井夫妻、このウオーキングを少しは気に入ってくれたみたい。
5〜6月頃には伊吹山に登ろうと約束できた。
奈良の古道も歩きたいといってくれた。

今日はお天気に恵まれた。
天気予報では午後には雨が来るようなことをいっていたがそんな雰囲気は感じらずポカポカの春の陽気だった。

本日の総歩行数:38,000歩。
*本日の写真集 (Sway)