番外 関西金亀会 「第11回歴史街道歩こう会」
2008.5.15(木) メンバー:138名、内彦八メンバー:竹村・西川・清水
電車行程 生駒駅
奈良線・快急
鶴橋駅
環状線
大阪駅
徒歩
阪急・梅田
特急
桂駅 嵐山駅 交通費
8:14 8:28〜8:32 8:47 9:06 9:44〜9:46 9:53 900円
コース:嵐山駅〜天龍寺〜レストラン嵐山で昼食〜野宮神社〜落柿舎〜二尊院〜祇王寺〜嵯峨釈迦堂(解散)〜嵐山駅

関西金亀会・彦八の部幹事竹村氏のお誘いに西川夫人と清水の二人が乗った。
関西金亀会というのは彦根東高校OBの会で大先輩は旧制中学「彦中55」以下新制高校「彦10」までのメンバーで
表題の通り150名近い人数が集まっていた。

生駒駅で8時過ぎの電車に乗ろうとするとギュウギュウ詰めで久しぶりの現役気分。
サラリーマンは大変だ。
10:00
阪急・嵐山駅に着くと、A〜Eグループに分けられてそれぞれ単位でスタート。

集合場所・嵐山駅前にて

渡月橋を渡る


Eグループ集合
10:30
渡月橋を渡る。
四方の山々の緑が初夏だなあと感じさせる。
10:40
天龍寺に入る。入山料500円のところ会費からの負担。

庭園

雲龍図

天龍寺:暦応2年(1339)8月、吉野で崩御した後醍醐天皇の菩提を弔うため、足利尊氏が夢窓国師を開山として創建した。
よって、夢窓国師の門流は隆盛し天龍寺は京都五山第一位の寺格を誇った。
この地は檀林皇后(嵯峨天皇の后)が創建した檀林寺の跡地で、後に後嵯峨上皇の仙洞御所亀山殿が営まれた。
後醍醐天皇は幼少期をここで過ごした。
夢窓国師による庭園(曹源池)は国の史跡・特別名勝第1号に指定、1994年に世界文化遺産に登録された。


天龍寺では堂内・庭園を見学するが外人も大勢見学している。
日本人のガイドさんが外人相手に説明しているのを横でつまみ聞き。外人は同時通訳をイヤーホンで聞いている。

台湾人と思われる人々も大勢だ。

11:50
天龍寺の見学が終わるとレストラン嵐山での昼食。
昼食時に本日の会費4000円が集められる。
残念ながらビールは各自清算。「自腹でいくらでも飲んでください」と。
ここで阪神電鉄の前社長西川恭爾氏(彦6)の挨拶、最長老の彦中55の中島嘉夫氏の挨拶。
中島氏は83歳とは思えない元気さで顔なんかツヤツヤしていた。

西川氏

中島氏
13:00 野宮神社。
13:15 常寂光寺。
13:25
落柿舎見学。
落柿舎横には西行法師の庵跡・向井去来の墓。周囲には俳句や短歌の句碑がいっぱい並んでいる。
オイラの歌もあるかな?と冗談を言ったら「清水風亭」と名のある句碑があった。

向井去来の墓

清水風亭の句碑
13:35
二尊院見学。

二尊院には釈迦如来と阿弥陀如来が祀られているところからこの名で呼ばれている。
平安時代初期、承和年間(834〜47)に嵯峨天皇が慈覚大師を開祖として建立したのが起こりです。
のち、土御門、後嵯峨、亀山三天皇の分骨が境内に納められたため、三帝陵として明治維新までは勅使の参拝があった。

応仁の乱によって堂宇伽藍が全焼したが、本堂・唐門は約30年後再建された。本堂「二尊院」の勅額(後奈良天皇)、
唐門「小倉山」の勅額(後柏原天皇)はこの時に下賜されたもの。


二尊院

後柏原天皇の勅額
14:20
祇王寺見学。

平家物語の巻頭に、祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。・・・・・・・・・・・・と美しく書き出してあるが、更に読み進むと祗王祗女の事が出て来る。
これは平氏全盛の頃、平清盛と二人の女性の哀れな物語である。

この頃、都に聞えた白拍子の上手に祗王、祗女と言う姉妹があった。近江の国野洲江辺庄の生れ。
父九郎時定は、江辺庄の庄司であったが罪あって、北陸に流されたので、母と共に京都に出て、白拍子となり、
のち姉の祗王が清盛の寵を得て、妹祗女も有名となり、毎月百石百貫の手当もあり、安隠に暮らしていた。

或時清盛が祗王に、何か欲しいものがあるかと尋ねると、祗王は、自分の生国は水の便が悪く、毎年旱害を受け、
一庄三村は飢餓に苦しんでいるから、願わくば、水利を得させて戴きたいと願った。
清盛は早速、野洲川から三里の溝を掘らせ、水を通した。里人はこれを徳とし溝を名づけて、祗王井川と呼び、今に至っている。

所がここに加賀の国の者で、仏御前と呼ばれる白拍子の上手が現われて清盛の西八条の館に行き、舞をお目にかけたいと申し出た。
清盛は、神とも言え、仏とも言え、祗王があらんずる所へは叶うまじきぞ、とうとうまかり出でよと門前払いをしたが、
祗王が、やさしく取りなしたので、呼び入れて、今様を歌わせることにした。仏御前は、

君を初めて見る折は 千代も歴ぬべし姫小松 
御前の池なる亀岡に 鶴こそ群れいて遊ぶめれ

と繰り返し三べん歌ったが、声も節も頗る上手だったから、清盛は、たちまち心動かして仏御前に心を移した。
昨日までの寵愛は何処へやら、祗王は館を追い出されることになった。せめてもの忘形見にと、

萌えいづるも 枯るるも同じ 野辺の草
いずれか秋にあわではつべき
と障子に書き残して去って行く。

あくる春になって清盛は仏が退屈しているから、舞を舞って仏をなぐさめよと使者をよこすと、祗王はもとより行く気は無かったが、
清盛の権勢と母の哀願に抗しかね、館に行って、 

仏もむかしは凡夫なり われらも遂には仏なり
いずれも仏性具せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ
と歌い舞った。並居る諸臣も、涙を絞ったと言う。

祗王「かくて都にあるならば、又うき目を見むづらん、今は都を外に出でん」とて、祗王二十一、祗女十九、母刀自四十五の三人、
髪を剃って尼となり、嵯峨の山里、今の祇王寺の地に世を捨て、仏門に入る。母子三人念仏している所へ竹の編戸を、ほとほとたたく者がある。
出て見ると、思いもかけぬ仏御前であった。

祗王の不幸を思うにつれ、いずれか秋にあわで果つべき、と書き残された歌を誦するにつれて、無常を感じ、
今朝、館をまぎれ出でて、かくなりてこそ参りたれと被っていた衣を打ちのけるのを見れば、剃髪した尼の姿であった。
わずかに十七にこそなる人の、浄土を願わんと深く思い入り給うこそ、と四人一緒に籠って朝夕の仏前に香華を供えて、
みな往生の本懐を遂げた。



祇王祇女 母刀自の墓

祇王寺の庭にヒマラヤの青いケシが
14:25
祇王寺すぐ横に壇林寺。ここへは入らなかったが、

嵯峨天皇后壇林寺は、平安時代初期の承和年間(834〜848)に嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子(壇林皇后)が建立した尼寺で皇后の没後、官寺とされた。創建の際、唐(中国)の義空和尚を師として日本最初の禅門寺となった。

創建当時の壇林寺はこの地でなく、野々宮神社の東、天竜寺北(右京区嵯峨天竜寺立石町)とされる。
広大な敷地で十二坊を数えたとされ、平安初期の仏教と文化の一中心地であったが、平安時代中期には早くも荒廃している。

往時を偲んで昭和39年(1964)、現在の地に再建された。本堂と霊宝館とがあり、皇后ゆかりの品や日本・中国の美術品他が展示されている。
壇林寺境内には皇后の供養塔がある。なお、壇林皇后陵は清滝トンネルの手前、愛宕(あたご)念仏寺の西約200mの所にある。

壇林寺石標

壇林寺

14:35
嵯峨釈迦堂(清涼寺)。
ご住職のお話を聞く。

「三国伝来の生身のお釈迦さま」 
凋然が中国へ渡った折、インドで釈尊37歳時の生き姿を刻んだといわれる栴檀(せんだん)の香木で作られた像が中国に伝えられているのを見て、
その像を模刻して日本に持ち帰った(985年)ものです。
完成時にお顔に仏牙を入れた時、1点から血が出て、生身の仏であることを示されたといわれています・・・等々。
15:00
清涼寺で解散。
我々は阪急桂駅で途中下車して養老の滝での反省会。
竹村君・陽子夫人と飲めてお酒がおいしかった。ありがとう。

本日の総歩行数:25,000歩。
*本日の写真集