上町台地と天王寺七坂 (第13回関西金亀会)
2009.5.12(火)
参加メンバー名:江田(松本)・勝矢(真砂)・西川(大林)・山本(渡辺)・浅井・竹内・竹村・西山・浜村・藤岡・山田・清水の12名
電車行程=610円 生駒駅
中央線・地下鉄
谷町四丁目駅
9:06 9:24

関西金亀会のイベントに我々彦八グループが揃って参加。
9:30
谷四で下車し、大阪歴史博物館前に行くと大勢の集団。参加確認をして竹村君経由で参加費3000円を支払う。

ここで浜村君が彦6の堀江氏を紹介してくれた。
堀江氏は元日本生命に勤めていた人で浜村君が現役当時お世話になったと言っていた。
堀江氏はワタシが退職後四国88ケ所を歩いて遍路したことを知り、
その様子を我が家にまで尋ねに来られたことがある。
「明日は伊勢参道を歩くんだ」と言っておられた。

大阪歴史博物館前
10:00
場所を難波宮跡に移して幹事役から諸説明。大勢で全く聞こえない、聞く気もない。

難波宮跡

難波宮跡にて

大化改新(645年)に伴う難波遷都以来8世紀末まで約150年間、難波宮は日本の首都としてまた副都として日本古代史上に大きな役割を果たした。・・・784年に桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が移築された。
隣接する歴史博物館では発掘された遺跡を展示している。

10:30
越中井。

越中井

越中井

ガラシャ夫人の名だけ聞いてもどんな人なのか知らない多いのではないでしょうか。
ガラシャは明智光秀の三女にして、細川越中守忠興公の夫人で熱心なキリシタン信者でありました。
慶長五年(1600年)忠興公が徳川家康に従って、会津上杉を征伐に出陣した留守中、
反家康の石田三成が、大名妻子たちを大阪城中に人質にしようとしたが、
ガラシャ夫人は聞き入れず石田三成に取り囲まれ、ぜひもなく家来に首を打たせ家屋敷火を放ち、
いさぎよく火中に果てました。
この越中井はその屋敷の台所にあったと伝えられています。
10:35
大阪カテドラル聖マリア大聖堂。



明治27年(1894)に「聖アグネス聖堂」として建てられたが、空襲で焼失。
昭和38年(1963)に「大阪カテドラル聖マリア大聖堂」に生まれ変わった。

敷地が細川大名家の屋敷跡であったことから、大聖堂前広場には細川ガラシャとキリシタン大名・高山右近の石像があり、壁面には、故堂本印象氏による画「最後の日のガラシャ夫人」が掲げられている。
細川ガラシャは、明智光秀の三女で、細川忠興に嫁いでキリスト教の洗礼を受けた。
関ヶ原の戦の際、人質として大坂城へ入ることを拒んで自決。

辞世の句:「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ」
一方、高山右近は高槻の領主で、禁止されていたキリストへの信仰を貫き、
マニラに追放された。大聖堂の約100個の窓はステンドグラスで、
イエスキリストと聖母マリアの生涯が描かれている。
2,400本のパイプを持つパイプオルガンの音色も素晴らしい。
10:45
玉造神社。

玉造神社本殿

豊臣家奉納の鳥居

日本書紀に記された勾玉のふるさと。難波の高台の当地には玉造岡と呼ばれ勾玉造りの集団居住地であった。
垂仁天皇17年(紀元前12年)宇迦之御魂大神(ウカノミタマノオオカミ)を主神に祀る。
稲の精霊、穀物の神、衣食住の神として崇敬されてきた。
11:10
三光神社。

三光神社

真田幸村像

仁徳天皇から三代後の反正天皇(406〜410)の代からと伝えられる。
古来より日本全国で唯一の「中風除けの神」として知られている。
大阪城の出城のあったところでもあり、大阪夏の陣で奮戦した真田幸村が偃月城(エンゲツジョウ)と名付け本城からの地下道を設けたとも言い伝えられている。
11:20
大阪靖国霊園。

大阪靖国霊園墓地

三光神社の裏手に大きな墓地。
明治44年(1871)にわが国が最初に造った陸軍墓地で現存する最も大きな規模。
墓石は倒壊寸前のものも含め5299基以上、遺骨は43000余体にのぼり、西南・日清・日露・太平洋戦争の戦死者に病死者も含む。
新憲法により国家が祭祀や維持をすることができなくなり修復されずにあったため、四天王寺の住職が「大阪靖国霊場維持会」をつくり法要などが営まれている。
12:15
「鎌八幡」「真言坂」等を歩き、生国魂神社。

神武天皇が国土の安定を願い、生島神・足島神という数多くの島々からなる日本列島の大神を祀った大阪最古の神社。
上方文化の発祥の地でもあった。



生国魂神社本殿前にて

井原西鶴像
ここで境内を宮司さんの案内を受けその後昼食。
ビールを楽しみにしていたのに一切無し。
14:45
源聖坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂を歩き、終点四天王寺着。

四天王寺

四天王寺の亀

四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。 今から1400年以上も前のことです。
『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り 「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう」 と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。


四天王寺の中を拝観して解散。

解散後、天王寺の地下街で反省会。
西山・山本・江田以外の9名で。

高校卒業後数十年経っても昔の気持ちで皆と語れるのは楽しいことです。
いつまでも健康でこんな会を楽しみたいですね。
幹事役さんありがとうございました。
本日のDor to Dorの総歩行数:23,889歩。
*本日の写真集