2007.6.15(金) 
 
第41回
近江路・日野町ウオーク


2007.6.15(金)藤岡・浅井君にご案内をお願いして日野町を歩いた。(参加者:浅井・藤岡・浜村・西川・清水の5名)
昨日から梅雨に入ったのに、我々の行いがよく雨の心配全くなし、涼しい風が歓迎してくれた。
両君ともインターネットからすばらしいコース地図を作ってくれていた。

日野町:【滋賀県の南東部、鈴鹿山系の西麓に位置する東西14.5km、南北12.3km、総面積117.63平方kmの町です。
霊峰・綿向山を東に望む日野町は、町の花である「ほんしゃくなげ」が咲き誇る、無限の大地が育んだ自然環境に恵まれた町です。
 この地に人が住み始めたのは古く、今から約1万2千年前と言われています。

旧石器時代の終わりから縄文時代の始めころ狩猟や採集生活を、さらに弥生時代には稲作も始められていた記録があり、
飛鳥時代には百済の文化
が持ち込まれました。

 やがて、室町時代、蒲生氏の城下町となって大きく変貌を遂げ、歴史の表舞台に登場してきました。
町の繁栄の基礎を築いた蒲生氏は400年以上この地を治め、商工業の保護・育成に努力し、鉄砲や鞍などを特産品として生み出してきました。
 その蒲生一族の中で、いまも日野の人々の心に生きているのが蒲生氏郷公であります。

信長の娘冬姫を妻とし、その後秀吉に従った氏郷は産業政策においても秀でており、日野に楽市楽座を開きました。
その後松阪12万石、会津92万石の藩主となりますが、日野の人々はなおも慕い続けました。

10:30
JR近江八幡駅に集合。
JRは茨木方面で踏み切りのイタヅラがあったとかで列車は時間が乱れていた。
10:45

日野行きバスに乗る。(バス賃:680円)
バスは小1時間日野町に向けて南進する。殆んど貸し切り状態。

途中「あかね公園」とか「喫茶店あかね」とか「あかね」という文字が目に付く。
西川君が「茜さす紫野行き標野行き 野守りは見ずや君が袖振る」(←クリック)の額田王の歌を思い出させてくれた。
この一帯が上記歌の本場か?
11:30
大窪バス停着。
バス停あたりが「日野銀座」とあり、新しい町並み。
日野銀座を過ぎると、昔の町並みが見られる。
【日野の中心街大窪の表通りは商店が近代化されているため、
古い町並みを見ることは難しいが、大窪の上の方や新町まで来ると、
いよいよ日野上人のふる里としての町の個性がはっきりと出てくる。

若村家や西田家などの旧家が軒を連ね、塀に作られた「桟敷窓」や家の入り口の「くぐり戸」が
見所の一つである。「桟敷窓」とは板塀を一部切り取り、中に桟敷を作って、
日野祭を見物する窓のことで、他の地方では見られない珍しい窓である。】

左のような説明板がところどころに立てられている。

昔のままの薬屋さん

民家の桟敷窓

また、日野祭には16基の曳山が出るとかでその曳山の格納庫もところどころに多く見られる。

曳山の説明板

曳山格納庫
11:45
信楽院(シンギョウイン)。

【信楽院は鎌倉期から安土桃山時代にかけて、日野地方を治めた蒲生家の菩提寺である。
本堂の天井には、日野が生んだ江戸期の画人高田敬輔の豪快な「雲竜」の天井絵がある。】


信楽院境内

天井絵
12:10
綿向神社。

【春季例大祭(5月2・3・4日)は日野祭と称し、3人の神稚児や3社の神輿、16基の曳山車を中心に、
古式ゆかしく絢爛豪華に繰り広げられる祭礼は県下にも有名で、県の無形文化財に指定されている。】


綿向神社

綿向神社
12:30
途中の落神神社という寂れた感じのお宮さんの境内で昼食をとり、午後は第3セクター「ブルーメの丘」を素通りし、
13:15
鬼室神社。

鬼室神社

本殿裏の石の祠
【のどかな農村風景が広がる、日野町の小野(この)の集落を歩いて行くと、田んぼの中にポツンと樹木に囲まれてたたずむ鬼室神社がある。
 近江に都があった1300年前の昔、朝鮮半島からやってきた多くの渡来人が朝廷につかえていました。
そのなかに、白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れた百済人、鬼室集斯(きしつしゅうし)という高官がいました。

優れた文化人であった彼は時の天智天皇に重用され、男女700余人とともに蒲生郡に移り住んだとされる。
 この神社の本殿裏に鬼室集斯の墓が祀られており、神社の名前もそこからきている。
 神社へ向かう道の看板や神社縁起もハングル文字で併記されており、蒲生野と大陸文化の結び付きの強さがわかります。】

鬼室神社の見学が終わると、バス停中之郷まで約2Kmを歩く。
そろそろ疲れが出てきた。

歩いていると、麦秋の刈り取りトラクターの周りをツバメが舞っている。
畑から飛び立つ虫を追っているのだろう。
道路の反対側には稲が植えられており、緑と茶色が対照的だ。

のどかさを覚える。
14:34
中之郷から町営バスに乗る。
バスには4・5年生だという小学生が10人ほど乗り合わせた。
浜村君が「学校が山の上にあるんだ。普通は街中にあるのに・・・」と何度もしきりに感心している。
15:30
バスは「石塔寺口」に着く。
石塔寺では入園料400円。

158段の石段を登りつめると、そこにはさすがに百済を想像させる石の塔。
ここの受付のおばさん、この寺は朝鮮とは無関係だと強調していたがそんなことはない!

この塔の周りはミニ88ヵ所になっていて、88ヵ寺のお地蔵さんが置かれている。

【天台宗寺院、阿育王山(あしょかおうざん)という山号で、開基は聖徳太子によると伝えられている。
山門の入口に「阿育王山」の額が掛かっており、赤松林の中の石段を登ると特異な形態をした三重石塔がそびえ立つ。
そして広場一帯を、何万という数の五輪塔や石仏の群が埋めつくす。

三重石塔は、奈良時代前期の作とされ、三重石塔としては日本最古・最大のもので国指定の重要文化財だ。
屋根は緩く膨れており、塔身は縦長、一番下の塔身は二枚石を合わせ、上部の安定をはかっている。
三重塔東側の五輪塔2基とその横にある宝塔も、国指定の重要文化財です。

 寺伝によると、釈迦入減(にゅうめつ)後100年、阿育大王(あしょかだいおう)がインドを治めたとき
仏法の興隆を願って8万4千の塔婆(とうば)を造り、それに仏舎利(ぶっしゃり)を納めて三千世界に撒布しました。

平安時代、唐に留学した寂照(じゃくしょう)が近江国にもその1つが埋まっているとと聞き、
日本へ向けた手紙を紙を木箱に納めて海中に投じ、3年後にこの箱が明石浦に漂着し、掘り当てた塔がこの阿育王塔であるといわれている。】





山門

本堂 

158段 

山門の「阿育王山」をなんと読むか?
「あっ いく おー」と答えたら、西川君に「あれが88ヶ所を2度も廻った男か!」

石塔寺から桜川駅に向けてまた歩くこと小1時間。
17:05
バスに乗車、近江八幡へ。
予定では野洲駅で下車して、駅前のお風呂を予定していたが時間が案外遅くなっていたので、
近江八幡の駅前で風呂抜きの反省会をしようと変更。
17:45

19:20

近江八幡駅前のサティの中の居酒屋「さん吉」でカンパーイ」

藤岡様浅井様ご案内をありがとうございました。 すばらしい1日でした。
22:00
自宅帰着。
本日の総歩行数:35,526歩。
 *本日の写真集(Sway)